9月21日に庄野潤三さんが亡くなったことを新聞で知り、けっこう長々とファンだったにも関わらず病気療養中だったことを知らず、うちのめされる。
次いで、淡々と描かれた日々の話は、「けい子ちゃんのゆかた」が最後になってしまったと思い出し、何か肉親が逝ってしまったような喪失感...みたいなものを感じてみたりする。
いちばん最初の出会いである「貝からと海の音」から順次読み返してみようかと、ヨロヨロと本棚へ向かい物色するも、あるはずの本まで喪失。
捨てたはずもないのに...と思い返せば、ああ、母の家に貸し出し中だったか。

代わって出てきたのは、同時代作家で庄野さんとは深い交流のあった小沼丹氏の「小さな手袋/珈琲挽き」で、表紙に小さく庄野潤三編とある。まずは、これを読み返そうかと目次を開く。
本の中には、61篇の掌編と最後に庄野潤三さんのあとがき...といってしまうにはもったいない、これも珠玉の一篇が収められていて、ともかくその日から1日一篇ずつ追悼するように大切に読んでみようかと思い立った。
ついつい1日に3~4話も読み進んだりして、40日目の昨晩読了。
何か夢から覚めたような心地で本を閉じ、再度本当の眠りについた。
庄野さんが選んで編んだ小沼さんの作品集は、不思議な雰囲気に満ちて、最初のうちは何故か毎晩不思議な夢を見た。
まだ舗装されていない道路を歩いてみたり、こじんまりして居心地の良いバーの片隅で、誰かの問わず語りを延々聞いていたり...というような。確か寝しなに読んだ話は、酒場で夜な夜な聞こし召しで手袋やら傘やら帽子やら...を忘れた話だ(笑)。それは昨晩読んだ物語の続きに違いない...と目覚めて思う。
中盤、1980年後半ごろ話によれば小沼さんは病を得たらしい。その言い方を借りれば「半病人になって」からは、夜というより朝の話の比重が増えて、庭を愛でたり、散歩を楽しんだり...何か、庄野潤三作品にも共通する雰囲気になってゆく。それにしたがい、私の眠りも深く、夢を見ても記憶は夢の世界へ置いてくるようになった。
私の友人のひとりが、庄野潤三さんの作品に対し、「これは、純文学作家のブログだと思った」と言っていたが、小沼さんの描く物語も同じくそんな風な感じを纏い、日々の「何気ない」を生き生きと描ききる。
というより、この世代の作家の方々は、なんとなく「事件」よりも「何気なさ」を大切にする感じがあって、それぞれのプロフィールを調べてやや合点がいった...ような気が。
小沼丹氏は、1918年生まれ。
庄野潤三氏は、1921年生まれ。
どちらも、多感な時代を戦争という恐怖溢れた事件の中で過ごし、同じく若い日々に高度経済成長と言う別の事件の体験をした。
あの強力な振り子のような時代を生きて、振り飛ばされることなく強く優しい。
だからこそ、見つけて差し出すものは、愛しい普通の日々なのだろうか。
...うがちすぎかな。
本日、書店の庄野潤三さんの書棚のあたりを回遊し、「ワシントンのうた」と題された本が上梓されているのを発見する。これは、「けい子ちゃんのゆかた」のあと書かれたもののようで、自らの幼少時代から青年期までを綴った自伝的小説...とある。
パラパラとページをめくり、庄野さんは、最後にきっちり自分の人生を締めくくったのだなぁ...と思い。少しだけ...少しだけココロが温かくなり、でも涙が出た。
読者と作家。たったそれだけの関係なのに、作家というのは、読み手に、なんとまあ強い気持ちを抱かせるものなのだろう。と、自分の涙に驚きつつも、庄野さんにも小沼さんにも、物語を通じての素敵な出会いに深く感謝してみる。
深く、深く深く、ありがとう。