「命の認識」と題されたその部屋では、まず、生まれなかった象とキリンの胎児がむかえる。
とりあえず、ホルマリンに浮かぶその不思議なものをジッと見る。
放っておかれた遺跡のようにも、まだ細胞分裂中の若い生命にも見えて、
観察の臨界点を越えると過去の記憶と未来に見る夢...が一瞬見える。
...ような気がする。
そして、奥には夥しい骨。
説明がきも解説も標本プレートも無い骨の集合を30分も眺めていたら、今度は、生きた記憶を語りはじめた...ようにも聞こえる。
鯨とか、キリンとか、いのししとか、そんなのが本来の声を忘れて、ざわざわざわざわざわざわざわざわざわ....。
煩いほどざわめきが部屋に満ちるが、何を言っているかわかるはずも無く。
しかし、充分に興味深く、飽きない。
東大博物館の展示は、博物館だというのに時々こんな風に放り投げるような展示の方法をとり、見る側の気分や感情や...時々教養とか常識とかにすべてを委ねるという余裕をかます。
困惑しながらも、ふっと、深呼吸するような心地よさがある。
世界中の博物館が、1日だけでも解説をやめたら、標本たちは、もっとずっと楽しかろうに...などと思うのだ。