大給坂の大銀杏。
12月の初旬には、葉を黄色く彩って、坂下の不忍通りからもその勇姿を眺めることが出来ました。
本日、図書館へ向かう途中、大給坂を登りつつ、「そういえば」...と、その方向を眺めれば、すっかりと葉を落としこんな姿に。
きちんと選定された枝の動きが、何か抽象的な彫刻作品のよう。
なんかこれはこれでいいですね。
ここは、かつて、坂上に大給豊後守の屋敷があったことから、大給坂と名付けられ、この銀杏は、その大給屋敷内にあったものなのだと、近くに立つ教育委員会のプレートにありました。
そうとうの樹齢を数える銀杏でもあるようで、だからこその、このエネルギー溢れるカタチなのでもありましょうか。
<付録>
そのプレート。ついでに、じっくり読み込んでみたら、なぜか坂上に「大給豊後守」の屋敷があったことからの「」部分が「子爵大給家」に修正されておりました。
なぜかしら?
そのあとに続く一文は、「大給氏は、戦国時代に三河国(愛知県)加茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)三河西尾に移封された一族である。」となって、前の記述のほうが違和感ないんですけどね。
子爵っていったら明治時代で、ちょっと時代的に飛びすぎでは?
この修正の意味は、ここに住み始めたのは子爵時代になってからということ?
あるいは、屋敷は、明治時代になってから作られたとか?
うーん。別にいいんですが、ちょっと気になるなぁ。