いよいよアースーシーの旅は第4巻です。
第3巻の出版から16年のときを経て初版は1993年。私はもうすでにすっかり大人の年齢で、ファンタジーを楽しむ余裕も無かったころにいつの間にか出版されていました。
もし、今回のアニメーション化が無かったら、一生この名作にふれることはなかったかも。
本当に良かったと思います。
この巻は他と比べて圧倒的に俗っぽくもあるという意味でユニークな話でした。特に大人の読者は是非この巻まできちんと読んで欲しいと思います。
これまでのテーマが生と死、悪と善、光と影...のような、他のファンタジーと共通したものが選ばれているという意味で、1、2、3巻は「普通のお話」とも言えるかな、と4巻目を読んで初めてそう気づいた...とでも言うか...それが理由です。
4巻目のテーマには、「性」が取り上げられている、そして「差別」も。
それをファンタジー仕立てにする難しさと価値を考えます。
ゲド戦記を大特集した雑誌「Invitaion」8月号の記事によれば、著者のアーシュラ・クローバー・ル=グヴィンは1927年生まれの女性で、アメリカのフェミニズムの旗手とも呼ばれた人だといいます。ゲド戦記のシリーズ1~3巻が出版された60年代後半から70年代は、ウーマンリブという名でフェミニズムの運動が大盛り上がりを見せていた時代。しかし、感情的ともいえる運動の盛り上がりの中で、「あなたはフェミニストのくせに単なる”英雄物語”を書いたに過ぎない」と批判されのだそうです。
私は80年代の大学生で、その盛り上がりは体験していません。差別は存在してもそれ自体が見えにくくなりはじめた時代で、ゼミや研究室に女性学などという名でその名残が存在していたものの、もうそれは(たぶん)マイノリティだったのだと思います。しかしそれでもそのゼミの学生だった私は、いつも違和感を持っていたのを思い出します。差別の由来を知りたいと参加したゼミで、その謎の答えを探るより先に、「そんなのよけいなお世話よ」といつも反発していた...そんな風な感じ。学問のための議論がプライベートな部分に入り込んでいって何か自己啓発的な雰囲気になってしまう、という意味の違和感。とがっているばかりで包容力がない議論だったと思い返します。
そういう時代だったのかもしれませんが...。
その運動がもっとも盛り上がった時代はいかばかりだったのか...。
想像はたやすいと思います。
そして、4巻の出版された90年代初頭、アメリカのフェミニズムはどうなっていったのだろうか?それはそれで気になるものの、ともかく著者はその時66歳。16年前の批判に対し、経験を積んだ彼女の応えは堂々たるものでした。
英雄だったゲドは魔法の力を奪われた弱弱しいオトコで、2巻で闇の国の大巫女だったテナーは、普通のおばさんとして登場します。がしかし、これほど大地に足を着けた話、「性」をとりまくゆがみと「差別」への希望ある答えをはっきり提示してくれる物語はそうないだろうとも思います。
ハリーポッターシリーズやスターウォーズのシリーズは、このゲド戦記に少なからず影響を受けていると想像しますが、オリジナルはいつまでもどこまでもオリジナルの風格を持つ。後発のどの話より圧倒的に骨太な話なのです。
岩波書店はこの本ももちろん小学6年、中学以上が対象としていて、図書館では児童書扱い。もしそれが確信犯だったらたいしたものだと思います。
真意はどうなのでしょうか?ちょっと聞いてみたい気もします。
ということで、オリジナルにゆるぎないイメージを持った今なら、そろそろアニメを見に行ってみようかと思います。このテーマであるならば、若い監督であるほうが実はすんなり入っていけたのでは?とも思いますので。