「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」橘玲 幻冬舎
ワーキングプアだ無縁社会だとまことしやかにニュースになって...なってるうちに、リーマンショックであっという間に失業→ホームレスが増加、そして先の震災。すわ今度こそ政治の出番だよ!と、毎回注目しても、いつも政争ばっかに忙しく、今も、ぜんぜん復旧の目処も立たず。
気がつけば、確かにちかごろ残酷な世界が繰り広がって、戦時中のドラマをぼんやり眺め、「戦争中よりはいいけれどね...」と、悪いほうと比較してとりあえずココロを納めてみる。
これって、確実によくない傾向。
でも、日本人の多くが、その残酷な世界にひたりながらも、そうとう抜き差しならない事態になるまで、それを考えないことにしてるってのが、正しいところなんじゃないですかね。
なので、まずは、この世は残酷なのかどうなのかの議論は置いておこう。
橘玲氏の著作は、タイトルに「...方法」とついたところでよくある「ハウツウ本」とは一線を画す。
書店では、たいがい、ビジネス書の棚の辺りにあるけれど、私にとってはビジネスというより、「新しい考え方」をいつも提示してくれる「哲学の本」にやや近い。
本書は、この社会でいまだ流行りと勢いのある「自己啓発すれば幸せになれる」という思想を取り上げ、「そんなことはやってもできないんだから、この世界を生き延びる方法にはならないよ」というところから話は始まる。
そう語る理由に関しては、じっくり本書で著者の考えを読んでもらって膝のひとつも打ってもらおう。
でも、たぶん、それって、なんとなくかすかに誰もが感じていることなんじゃないか。
確かに会社員時代には、「自己啓発」ちっくな研修もずいぶんあったけれど、会社も社員も何も変わらなかった。書店へ行けばなんだか日々「自己啓発」の棚が増殖しているようにも見えるけど、世界はぜんぜん幸せにはならないのは周知の通りだ。
でも、絶望することは無くて、方法はあるよというのが本書の意図するところ。
現代は、ネットワークとグローバルが生んだ充実したニッチの世界。
それは、世界中で大ヒットするのは難しくても、その世界が相手ならば、それが面白いとおもう人をある一定数...トータルにすれば結構な数の人を見つけられる世界でもあって、好きなことさえ発見できてそこに真摯に向かい合えば、自分(と仲間数人)が生きてゆくのは可能だよと解いている。
...といっているように私には思えた。
たとえば、ある素敵な靴があって、それは、普通の靴より高いかもしれないけれど高級ブランド品ほどの価格ではないとする。それは、靴作りが好きなひとが日々切磋琢磨して作り上げた、なかなかに履きやすい、なんどでも修理に耐えられる優れた靴で、そんな素敵な靴だったら納得の価格。
そんなものがあったとしたら...。
狭く閉じた街中でならば、それでもその靴がいいと思う人は数人しかいないかも知れず、靴はそんなに売れないかもしれない。
好きで作った靴はあっという間に趣味の世界と決め付けられる可能性もある。
しかし、世界中の中にいる誰かが相手ならば、欲しい人は1年に数千人ぐらいは見つけられるかもしれない。それは、立派な仕事として成立を見るはずだ。
広い世界のニッチならば、仕事の相手は、ほどほどにたくさん存在するのだ。そしてほどほどならば、無駄に忙しかったり、自分を変える無理も必要はない。
これは、世界の誰かの何かを搾取し格安すぎる靴を作り、大量に売ろうとする仕事とは一線を画しまくる。
安い靴は、一瞬喜ばれるかもしれないが、破れれば、どこかに捨てられごみになってゆく。あるいはつい大量に買い込んで使いこなしきれず、家の中の余剰物となって堆積する。
一方、それを作って売るほうだって、さまざまな矛盾を我慢することを強いられる。そもそも、膨大な相手と密に過ごす=会社や工場で働くことと、個人の「好き」がマッチするなど奇跡に近いことを誰もが知っているはずだ。
グローバル&ニッチな世界で密かに売り買いされるに足りる靴は、売るほうも買うほうも幸せであり、その靴を介してつながることさえできる。
この「靴」のところに、自分のやりたい好きなことを入れてみよう、なんとなくピンときませんか?
著者はこのことを、「伽藍(がらん)を捨ててバザールに向かえ!恐竜の尻尾のなかに頭を探せ!」と、象徴的な言葉で語っているけど、たぶんそうゆうことかと思う。
「ええっ?何のこと?」と思うならば、この二つの言葉に向かうため、著者がさまざまな書物(これ自体もまた面白そう!)や、映画、や事象そのものを屈指してくみ上げた、非常に面白い本書をどうぞ。